岩谷教授就任15周年記念
第11回研究室旅行
(2009.7.4-5 京都府宮津市天橋立方面)

製作途中です


初の貸し切りバス旅行でした

天橋立
宮津湾の西南奥に発達した白砂青松の砂洲。陸奥の松島(宮城県)、アナゴの宮島安芸の宮島(広島県)とともに日本三景の一つ。字江尻から西南に伸びる。総延長は3,370メートル、幅20〜70メートル。大天橋・小天橋・第2小天橋からなり、傘松地区とともに京都府立天橋立公園を形成する。大天橋・小天橋には約5,000本のク ロマツが茂り、ハマユウも自生。

日本の松・百選、日本の道・百選、白砂青松の百選
日本三景と呼ばれるようになったのは、約350年ほど前の寛永20年に、当時の学者・林春斎が「日本国事跡考」に「丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の宮島を日本三景」と書いたのが始まり。

百人一首 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天橋立 (小式部内侍)
和泉式部 橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし
和泉式部 よさの海の海士のしわざとみしものをさもわがやくと汐たるるかな
村田春海 神の世に神のかよいし跡なれや雲居につづく天橋立
与謝蕪村 はしたてや松は月日のこぼれ種
与謝野晶子 船をいで十町が程踏みたりし白き真砂子の橋立の道

神話と天橋立
天橋立は神の造った梯子が倒れた?この橋が国生み神話の舞台?

「丹後国風土記逸文」より
“与謝の郡。郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。 前の方の突出部を天の椅立(はしだて)と名づけ、後の方を久志の浜と名づける。
そういうわけは、国をお生みになった大神の伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた。それ故に天の椅立といった。 ところが大神がお寝みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備(くしび・神異)であられると不思議にお思いになった。それ故、久志備の浜といった。中ごろから久志というようになった”


「古事記・日本書紀」より
“ここに天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、二柱の神に、「この漂へる国を修め埋り(つくり)固め成せ。」と詔りて(のりて)、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろしてかきたまへば、しほこをろこをろにかき鳴して(海水をコロコロとかき鳴らして)引き上 げたまふ時、その矛の末(さき)より垂り(しただり)落つるしほ、累なり(かさなり)積もりて島と成りき。これオノゴロ島なり。”
(大意:さまざまな神様がイザナギノミコトとイザナミノミコトに「いまは漂っているこの国を堅固なものにせよ」と命じて「天の沼矛」を授けた。二人は天の浮橋に立ってこの沼矛を海に下ろしてかき混ぜて引き上げたときに、矛の先からしたたり落ちた潮が積もってオノコロ島という島ができた)