内田勝先生追悼文01


 

内田 勝先生を偲んで

 

診療エックス線技師学校専攻科1期生 畑川政勝

 

昨年、平成21年12月13日に内田 勝先生がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

内田先生は、大阪大学医学部附属診療エックス線技師学校で技師教育を成されておりました。その後、同医療短大で助教授をされた後、いくつかの大学の工学部で教鞭をとられ直接技師の教育からは離れられましたが首尾一貫として放射線技師の知識や技術の向上、さらに社会的な地位の向上のために尽くされました。

ここに、私にとっての内田先生の思い出を述べて、先生への追悼とさせていただきます。

内田先生と初めてお会いしたのはエックス線技師学校の入学試験の日からで、その時点でとても厳しい先生だと実感しました。そして技師学校での試験は極めて難しく、また礼儀や服装にも厳しく鬼の内田と呼ばれることもありました。これは当時はまだ学校が各種学校だったこともあって、学生としての自覚を持たせ学問のレベルを向上させるという気持ちからでした。

当時(昭和41年頃)、先生はMTFの研究をされていて、私も嫌というほどMTFの理論を勉強させられました。そしてその後宮崎大学工学部教授になられ、さらに岐阜大学に転勤されました。そのころ私はレーザー光学系でフーリエ変換を行いCT画像の再構成をするという論文を発表したのですが、それが内田先生の目に止まり、久しぶりに岐阜大学でお目にかかることになりました。そしてエントロピーを用いた論文を内田先生の指導で英文誌に載せたりしました。この間、内田先生は現在放射線技術学会長である小寺吉衞先生や画像分科会長であった藤田広志先生を指導しておられます。

ここで、内田先生の考え方は、放射線技師が技師独特の学問を持つべきだと言う事です。医学は医師が、機械や放射線は工学や理学などの専門家がいます。では放射線技師独自の学問はというと画像工学である。撮影、CT、核医学など画像を扱う部門での基礎は画像工学で、これこそ他の職種とは異なる技師の専門性をアピールできる学問であるということで、技術学会の中に画像部会(現分科会)を設立され、技師学校での教え子である山下一也先生、前述の小寺先生や藤田先生など、技師や技師以外の画像の専門家を交えて放射線技師の画像についての知識や技術の向上に努められました。

 その後、あまり内田先生ともお会いする機会が無かったのですが、シカゴで某学会が開かれ私も参加しました。その帰りの飛行機の中で内田先生より長時間にわたり、説教?され、ぜひ工学博士号を取るように説得されました。そして立命館大学の苅谷先生を紹介いただき、数年後に博士号を頂くことが出来ましたが各種学校出の私がこのような学位を頂けたのもひとえに内田先生のおかげと感謝しております。

実は内田先生の指導でたくさんの技師が学位を取得しています。これは多くの技師が博士号を得ることが技師の知的レベルの向上はもちろんですがその身分を社会的に高くし、社会から認めてもらえる職種にするために必要であるとの考え方からです。学位と言う事に放射線技師はあまり関心を持たないようですが、学位取得の難しさを知っている医師はその努力を心から理解してくれます。そしてこのことは病院内における技師の発言力を高めることになります。 

その後内田先生は、岐阜大学を退官され常葉学園静岡大学で教鞭をとられ、リタイヤされた後もお亡くなりになるまで、技師を牽引するような方々を育成されたり技師の学問体系や社会的な地位の向上に努められました。

 

有難うございました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 今でも我が家の玄関には先生からいただいた大きな埴輪の人形が私に喝を入れてくれています。

 

PS:実は内田先生と過ごした技師学校のあった待兼山(今は博物館)に何十年かぶりに行く予定になっていたのですが、偶然にもその前日にこの追悼文の依頼がありました。この恐ろしいほどの偶然に思わず内田先生が私を待兼山に引き寄せたのだと、草ぼうぼうの学校の跡地を見ながら茫然としていました。そしてそこに内田先生の笑顔が見えたような気がしました。

合掌