内田勝先生追悼文02


 

内田勝先生を偲ぶ

 

診療エックス線技師学校3期生 寺田 央

 

 

 長らくご無沙汰しているので、近々に会いに行こうかなと思っていた矢先の訃報であった。 宮崎の自宅にお邪魔したときの小高い丘に建つ邸内にある小川のせせらぎが思い出される。

 私がはじめて内田先生にお会いしたのは昭和29年阪大診療エックス線技師学校の3期生として入学したとき以来である。 先生の講義は電気工学を担当されていたが、ただただ黒板に書いた解説や公式を懸命にノートに書き込むだけの授業であった。2年間の在学期間で記憶に残るほどの思い出も少ないが、講義中や先生を囲んで雑談するなかで先生の母校である旅順工科大学時代のことを再々話されていたことが記憶にある。私自身にとっては卒業後の就職先として当時関西地区で始めてコバルト60の放射線治療装置(東芝)が導入された阪大微研病院を推薦していただき採用に助力していただいた恩人でもある。その後の先生の長年に亘る偉大な業績は自他共に認めるところであるが、ここで内田先生のお人柄について述べ先生を偲ぶ一文としたい。

しばらく記憶にないほどお会いすることもなかったが、平成11年2月に宮崎のシーガイアリゾートで当地のブレストピアなんば病院の難波清院長(現顧問)が世話人となって日本乳癌画像研究会が開催された。この研究会で久しぶりに内田先生とお会いすることができた。丁度、阪大病院の本田育子さんも参加していて、この再会を本当に喜んでくださった。このときの先生の喜色満面の顔つきは今も忘れられない。(写真)その場は話が弾んで明日自宅に遊びに来るように言われた。翌日、本田さんと二人で訪問したが、ご夫妻で歓待していただき、その日の午後には奥様の運転で近隣の観光名所を案内していただいた。また、邸内をくまなく案内してくださった折、ご夫妻の写真入りで、「夫婦共に満ち足りた日々を送っています」と書かれた、自宅内覧会の建築会社の宣伝パンフレットを頂いたが、今も手元に残っている。

その後、半年ほど難波先生の要請でブレストピアなんば病院の画像診断センターに出向くことになった時期があり、その機会を利用して時々先生の自宅にお邪魔していた。再会するたびに、学生時代の厳しい先生ではなく心のやさしい好好爺であった気がする。黄泉の世界に旅立たれる前にもう一度お会いできなかったことが悔やまれる。

ご冥福を心からお祈りいたします。

 

 写真

寺田、内田先生、本田(日本乳房画像研究会にて(宮崎)