内田勝先生追悼文04


 

 

恩師内田先生に感謝をこめて

                                                 

 

                                                 

亀田総合病院医療技術部長 速水昭雄(X線技師学校八期生)

 

内田先生のご逝去に対し心よりお悔やみ申し上げます。

私が内田先生とお会いすることになったのは、昭和34年(1959)当時の大阪大学医学部付属エックス線技師学校の8期生として養成学校に入ったことがきっかけであります。

阪大を受験することになったのは、高校時代の先輩の進めもあり当時全国には数校の国立系の付属技師学校がありましたが、余り深く考えることもなく、一番歴史的に古く権威のあるというような単純な理由で入学いたしました。

私が入学した当時の教室は堂島の大阪大学病院の一角にあったお粗末な教室であり、とても落ち着いて勉強する環境ではなかったと思います。その後2年目からは阪急沿線石橋の阪大分院のある待兼山の麓の自然豊かな教室に移転致しました。

その当時の学校長は放射線医学会の重鎮であった立入教授であり、教務主任が内田先生でその当時は38歳になられた頃で、今考えると血気盛んで気力・体力ともに一番充実されていた頃ではないかと思います。私の学生生活は余り勉強もしない要領の良い学生であったと自覚しております。何となく卒業させていただきましたが先生には不詳の生徒であったと深く反省しています。とにかく先生は電気工学が専門で授業は厳しく、先生の試験に一度不合格になると追試がさらに厳しくなり、何度も再試を受けていた学友が何人かいたことを覚えています。

内田先生は放射線医学領域に情報理論を持ち込んだ第1人者であろうと思いますが、当時も阪大の山下先生達を中心に技術学会で最大情報量撮影の研究発表がされていたようです。内田先生は画像解像度の評価法として今までの視覚的評価から物理的評価としてのMTFの導入を発表されて、その後放射線像研究会(MII)を設立されたことを記憶しています。内田先生の情報理論は私たちの卒業後に学会などで知ることができましたが、その当時はその内容の授業を受けることが出来なかったことは今も非常に残念なことであります。

先生は教務主任として、日本のリーダとなる放射線技師を育てることに非常に情熱をそそがれておられ、放射線技術を学問として確立することに特別な信念とこだわりを持っておられました。当時いい加減な学生の私でも最も印象に残っていることは、社会に出たときに阪大で技師教育を受けたことに誇りを持てるような技師になることを強く教わったことであります。これが、その後の私の放射線技師としての人生に大きな影響をもたらしていることと思います。

私自身、見ず知らずの東京で阪大の多くの先輩に恵まれ、その後先輩方の推薦と支援もあり国立がんセンターをベースに日本放射線技術学会での活躍のチャンスをいただくことができました。全国学会の場や学会の理事会などでは内田先生から何時も励ましの言葉をかけて戴けたことが非常な喜びであり誇りでもありました。

最近先生にもお会いすることも少なくなく、体調が良くないようなことをお聞きしておりましたが、こんなに早く訃報を聞くことになるとは信じられない思いであります。先生は阪大ならびに日本放射線技術学会の誇りであり、非常に残念なことであります。これからは先生の教えを受けた多くの後輩が先生の意思を繋いで放射線技術の発展に寄与することを祈念申し上げまして追悼の辞とさせていただきます。                                           

合掌