曽我部先生追悼文02


 

「曽我部先生の想い出」

 

 

医短3期 板谷 充子

 

待兼山の本館2階に上がるとすぐ右側に曽我部教授室がありました。当時すでにとても古い建物で昔は病院として使用されていたと聞きました。国立大学として初めて3年制の医療技術系短大が大阪大学に併設され、3学年全部がそろったのは1969年私たち3期生が入学した年でした。放射線技術学科の主任教授として私たちのお世話をしてくださっていたというだけでなく、曽我部教授室はいつも学生たちで賑わっていました。特に私たち3期生にとっては「父」のような存在だったように思います。学生たちには分け隔てなく接してくださり、今のようなスマホもゲームもない時代ですから学生たちの娯楽といえば男子は麻雀、数少ない放射線科の女子はおしゃべりなどに先生の部屋に押しかけていました。麻雀が大好きな先生は学生たちとよく麻雀をされていました。でも、ご専門の電気工学の話や当時教授室にあった日立の大きな大きなコンピューターの話題になると相手が学生であっても時間を忘れて話し込んでおられました。理系の大学でしたが実は頭の構造はどっぷり文系女子の私にはついていけない話題が多かった記憶があります。

 先生との思い出は本当にたくさんあるのですが、たしか2年生の夏休みに、先生と私たちのグループ(何のグループだったのでしょうか?やんちゃな仲間たちでした。おまけにこのグループから3組も結婚するカップルが。)で海水浴に行きました。その時の写真がいっぱい残っています。砂風呂〜〜などと言って先生を埋めたり、みんなで夕日を眺めたりしました。先生もとても楽しそうで、学生たちのことが本当にお好きだったのだと思います。少し首を傾けて一言一言を考えながらお話しされる癖も懐かしい思い出です。

 最後にとても個人的なことですが、曽我部先生との大切な思い出を書きたいと思います。先生に一番お世話になったのは実は同級生カップル3号の私たち夫婦かもしれません。結婚して5か月後に頚椎5番の損傷で胸部から下がマヒ状態になった夫晴男をとても心配してくださり、自立訓練のためにリハビリの有名な施設を探して、先生ご自身が車で病院に診察に連れて行ってくださいました。将来が見えない一番つらい時期に先生は寄り添ってくださったのだと今も感謝しています。その後5年かけて晴男は社会復帰しました。私たちが今も元気で暮らしていられるのは先生の温かい応援があったからです。

 曽我部先生ありがとうございました。ご冥福を心からお祈りしています。