曽我部先生追悼文04


 

「曽我部先生を偲んで」

 

 

医短4期 石黒 立美

 

風邪気味である、といえば引き始めをさす場合が多く最終的に治癒する。それでいうと自分は認知症気味である、と思われる、程度はわからない、寛解もしない。ヒトの記憶で楽しかったことなどは結晶化して忘れることはないという、それは件の者でもいえるらしい。曽我部先生(以下、´´と記す)との関わりやそれ以外の中で特に印象深かったものを正面からではなく後方45度くらいから眺めた思い出を記した。歴史認識や表現に些か問題があるがどうかご容赦頂きたい。昭和46年入学、師との出会いは1年後期か2年だったと記憶している。電気電子工学、同実習、自動制御、演習(以下、ゼミ)を履修した。ゼミは自由選択で自分は23年と参加、当時の曽我部ゼミを仕切っていた、と自負している。実験実習では師がマルチバイブレータよりトランジスタの温度特性、実習補助の藤田先生からはサイリスタ、黒田先生からは本館横の山をくり貫いて設置されていたベータトロンなどについて学んだ、ような気がする。ゼミはコンピュータについて輪読や装置見学、あと親睦会が中心だった。昭和40年代後半でもパソコンなどというツールはなく、やっと日立製ミニコンピュータHITAC10が世間にお目見えし、その講習会に昼飯付きで行かせて貰ったことがある。これでMTFの計算ができると意気込んだが実際はアセンブラやフォートランなどコンパイラ言語について少しかじった程度である。それで得た僅かな知識から後に勤める大学病院RI室に検査データ処理用に導入されたDEC11/34を使い、ax2+ bx+c=0 の二次方程式でa,b,c,にそれぞれ任意の数値を代入するとxの解が算出されるというプログラムを組み、無事、解が出力されたときは感激したものだった。今からすると実にアホ臭い。臨床系以外の基礎学問の双璧といえば、電気電子工学と放射線物理(以下、放物)原子物理だった。師の愛車は日野コンテッサ1300 RR (後にマツダルーチェに乗り換え)、一方、放物の加納先生はスバルff1で通勤されていた。クルマのメカとしては対称的だった。ピーターフォーク演ずる刑事コロンボはドラマの中で59年式ブルー?のプジョーに乗っていた。加納先生のは、製造当初はライトシアンに身を包んだ軽快車だった、と推測されるが自分が見たのはグレーの艶消しで走りは学校の門をくぐってから本館までの坂を登るのがやっと、だった。ユニバーサル映画のプロデューサーが見ていたらきっと欲しがったに違いない。それたがもう少し。学務掛の溝川さんは学生の世話をよくしてくれた、事務所奥に美人で豊満な胸をたたえた木下さん(だったと思う)が図書室の受付を兼務されていた時などは読みもしない徳川家康全20巻をせっせと借りた。電話交換室の吉田さんとは甲子園に行ったこともある。話を戻して、先にゼミを仕切っていたと書いたが中でも親睦会はなんだかんだとやたら回数が多く、師が池田の鮎茶屋へ行こかと言われたのをこれ幸いに温泉に浸かり、しし鍋を食べに行ったことが何度かある。師のクルマの乗車定員に限りがあるため学生参加は常に34名だった。また不運にも交通事故に遭われたことがある。ご存知の方もおられると思うが師は特別安全運転を心掛ける方で、目的地へ向かうルートで左折する予定があるときなどは500mくらい手前から道路の左側を走行され、おおよそ事故とは無縁である、と思っていたが何が起こるかわからないのは昔も今も同じである。阪大病院に見舞いに行った際、師は向こうの建物(病棟)に山崎豊子が入院している。と言っておられた。以上、思いつくまま書いた。生涯の学校生活の人生の中でもう一度教えてもらいたい先生は、と尋ねられると真っ先に曽我部先生の名を挙げるだろう。先生のご冥福をお祈りします。