曽我部先生追悼文06


 

一枚の写真に寄せて

 

 医短10期 与小田 一郎

 

 

曽我部秀一先生の訃報に接し、哀悼の誠を捧げるとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます。

曽我部先生には、電気工学、電子工学、情報処理技術学をご教授頂きました。指定の教科書がありましたが、理解し易いようにご自身で編集されたテキストブックを使われ、有志が輪転機でお手伝いをしていたと聞いています。授業は曽我部先生の柔和なお人柄そのままの紳士的で穏やかなものでしたが、核心部に入り熱を帯びると鋭い目で饒舌になっておられたのを覚えています。私たちは親しみをこめて「我部さん」と呼ばせて頂きました。授業以外でも有志で高浜(あるいは美浜)の原子力発電所の見学を計画した際、大変お世話になったことを今でも忘れることはできません。   

曽我部先生の電子計算機ゼミ(通称我部ゼミ)に入ったきっかけは、同期の寺本、高田両氏に誘われたこともありましたが、曽我部先生のご指導の下、計算機室のミニコンピュータHITAC 10Uを直に使わせて頂き、情報処理をより肌で感じることができると思ったからです。マシンは16ビットCPU、メモリは磁気コアで最大32Kワード、やっとラックマウントできる大きさになった機種で、基本入出力はデータタイプライター、可搬記憶媒体は紙テープと、今の若い方には想像できないコンピュータでした。曽我部先生にソフトウエアであるアセンブラ、コンパイラ(FORTRANBASIC)のプログラミング指導をして頂いた後は、ゼミのメンバーは実機を使ってプログラミング演習に励みました。遅くまで稼働していても、紙テープを使い果たしても曽我部先生には叱られた記憶がありません。本当に自由にさせて頂き感謝しております。文化祭の時に占いプログラムを作成し、有志の好評を得たことは懐かしい思い出です。紙テープリーダーで読み取らせる時のピューという音とデータタイプライターの紙送り音、インクの匂いを思い出すと曽我部先生の笑い声が聞こえて来るようです。

ここに1枚の写真があります。昭和53716日、3学年の夏休みに34日で計画した我部ゼミ・心理ゼミ合同旅行に曽我部先生も参加された時のスナップです。撮影されたのは能登半島関野鼻で10期女子有志と一緒に微笑んでおられます。民宿で曽我部先生のお嬢様くらいの私達と一緒に大部屋に泊り、炎天下での観光があり、海水浴では長い時間ビーチハウスで待って頂いた上、愛車のルーチェを宇治市木幡からわざわざ出して頂いたことには、本当に恐縮致しました。大変お疲れになったと思いますが、この様に普段着で学生に接して頂ける大学教授は当時他にはおられなかったと思います。

「我部ゼミ」を巣立った同期のひとりは外資系放射線医療機器メーカーのサービスエンジニアになり、仕事の上で疑問が出ると曽我部先生を尋ねました。郷里に戻り大学病院に勤務したひとりは、ゼミでの経験がきっかけとなり医療情報部で敏腕を揮いました。医科大学病院に努めたひとりは、放射線治療に携わり積極的に学術発表にも挑みました。最初の職場を卒業したひとりは、地域医療に貢献しています。

ゼミで時間を共有した私たちも当時の曽我部先生の年令に近づき、部下や新人の指導に頭を痛めることがあります。医療技術者を育てて来られた先生のご苦労を思う時、相手と垣根を作らず普段着で接し、自主性を重んじる曽我部流の人材育成を私たちも実践する時ではないかと感じます。曽我部先生がお元気な時にお尋ねしなかったことを大変後悔しておりますが、気さくに微笑まれる柔和なお顔は、この写真のように私たちの思い出の中にいつまでも残ることでしょう。曽我部先生、人生の糧を有難うございました。合掌。