看護師になりたいなあと思い始めたのは幼少期からです。幼少期、風邪をひいて寝込んでいた時、薬を飲んだ後も一向に気分が良くならない状況でした。そんな時、毎日仕事で忙しい母が枕元に来て私の額に母の冷たい手を当てたんです。その瞬間、不思議に気分がすっと良くなるのを感じました。その時思ったんです。人の手って薬には及ばない不思議な力があるんだと。そして、私自身も人々を癒せる“マジックハンド”の持ち主になりたいと…。
その後、命の生まれる瞬間に携わる助産師さんという職業があることを知り、なんとマジックハンドどころか愛と夢と希望のつまった命を世に送り出すスーパーマジックハンドの持ち主になれるかもしれない&なりたいという思いの中、当時看護科のカリキュラムの中に助産師コースのあった大阪大学を目指しました。
自分なりにやれるだけのことを一生懸命にやる、やった後は悩まない。結果は出ても出なくても、そこからまた道がつながるという心構え。それを身につけました。
正直なところ、大阪大学の学部時代は、私の中で挫折だらけでした。阪大には3年次編入生として入りました。編入当時はスケジュールの関係で二つのキャンパスを1日に行ったり来たりしつつ、複数の基礎の単位(数学、統計解析、微生物、英語、第三外国語など)を医学部医学科の学生さん達と看護の専門科目を看護科の学生と同時進行に、新しい環境でこなしていくのが大変だったのを覚えています。もともと不器用な人間で、人の何倍も努力して結果を出すタイプの人間だったのですが、その時ばかりはどれだけ頑張っても周りの遥かに賢いクラスメイト達についていくのがやっともしくはついていけない事実を受け入れてやれるだけのことをするしかありませんでした。
挫折の波はまだ続き、助産師コースにも大きな転機がありました。もともと、助産師コースを理由に大学を選んだのに、なんと助産師コースの途中で選別から落ちてしまったんです。個人的にとても不本意な結果で助産師になる道を一旦絶たれました。私事で、同時期にファーストラブの恋愛も終わりを迎え、私の中では将来の結婚、家庭、仕事の理想や計画の全てが崩れ、まさに世界がUpside downになった思いでした。丁度、10代、20代の前半って脳が最終発達&調整をする時期なので、感情的にすごく敏感でコントロールの難しい年頃なんですよね。まさに、それを実践していました。
今思えば、その挫折の痛みと混乱の中で、学んだこと・見えるようになったことも沢山ありますし、時間の助けをかりつつ閉まるドアがあれば開くドアがあるんだと染み染み思います。
アメリカに来て看護師をしている私がいうのもなんですが、中学、高校、大学を通して英語が大の苦手で、悪の根源ほど毛嫌いもしていました。でも、保健学科でランチタイム特別講座みたいなのをどなたか先生がしていらして、そこでは当時流行っていたアメリカの医療ドラマ「ER」を皆で見ながら、先生がシーンで使われた英語の解説、病状や医療処置の解説、時には「こんなのは本当の現場ではありえない」と茶々を途中でしてくださりながら、ランチョン講座が進むものでした。英語嫌いの私にとって、それまでにない、興味ふかい英語を踏まえた講座であり、初めて少しだけ英語に近づけたきっかけをもらったように思います。
先ほど記述したように、私は編入生として大阪大学に来ましたので、その時点で正看護師の資格をもう持っていました。したがって、授業後は看護師としてパートタイムで働くことが多く、他の学生さん達のキャンパスライフとは少し違っていました。それでも、編入仲間と授業の合間に映画を見に行ったり、ご飯に行ったりしたのを覚えています。また、私は高校時代からバスケ部マネージャーをしていたので、大阪大学でも限られた時間ながらバスケに携わりたく、バスケ部の門を叩いたところ快く受け入れてもらえ、可能な範囲で練習、試合、飲み会などに参加させてもらい、学部外での交流を味わうことができました。
お恥ずかしながら、大学院に残った理由は“人生の見つめ直し”もしくは“立て直し”というのが正直な話です。
大学院を受験するときは、まだ助産師を目指しており、ゆくゆくは未来の旦那さんとの開業を目指しておりましたので、もっと専門の知識とMaster’s Degreeがあったら有利なんじゃないかというシンプルな理由でした。ところがその後、助産師の道もファーストラブも同時期に失い、当時の私としては生きている意味、人生の意味がわからなくなるほどの絶望と混沌の時期に入りました。鬱の真っ只中、頭もぼーっとしていて働かない状態で、学部卒業後、何もかも新しい環境で新人看護師としてバリバリ教えを受けながら働いていくことは、現実的に不可能と思えました。
大学院では、学部時代からずっとお世話になっていた大橋教授の研究室にお世話になることになっておりました。助産師コースの挫折にしろ大失恋にしろ、タオル持参で大泣きしにくる私を、忙しい中毎回ゆっくり話を聞いてくれ、「急がなくていいから、ゆっくりこれからのことを考えればいい。」と言ってくれるのが大橋先生でした。
そのようにして、大学院に残り、大橋先生のカウンセリングかつご指導を受けつつ、研究室のかけがえのない友人達の愛に癒され、且つ彼らの頑張りに刺激を受けつつ、興味があった母性、小児看護の分野での知識や関心を広げられた経験が、今の新しい目標と夢へ自分を導いてくれていると思います。
大学院卒業後、看護師として就職となりましたが、当時はまだ助産師への夢もぼんやり残っていました。その理由もあり、助産師さんとの関わりも持てる大阪大学周産期科のNICU(新生児集中治療室)の看護師として働く希望を就職時に出しました。看護師として働きながら、もしも本当に助産師にやっぱりなりたいを思った時には、どこかの助産学校に戻り資格を取り直そうと思っていました。
ところが、NICUの看護師を始めた途端、その仕事の魅力、楽しみ、やり甲斐、いろんな意味での学びの深さに虜になりました。助産師さんも素晴らしい仕事だとは思いますが、私の個人的な気質的にもNICUの看護師の仕事の方が結果的に合っていたのではないかなと今では感じます。
10年以上NICU看護師をしている今でも、この仕事の魅力と喜びは増すばかりです。小さな命達が輝き、愛と切なさの共存する現場で、私たちはまさに人の命、人生に触れます。自分の放つ一言が、自分の判断の一つが、自分の行うケア一つが、目の前の小さくて強く脆いでも限りなく美しく愛しい生命の未来に触れていることを実感します。集中治療室で生死をさまよう小さな命とその家族のために一緒に戦う、それを超えて、成長発達の大切な時期をNICUで過ごす、その子達とその家族の未来を可能な限り輝き喜び溢れるものにできるよう、どのように手助けができるか、まだまだ、学び及び研究、経験を積む余地があります。
今、これを読んでいるあなたは人生のどの時点でどんな経験をしているところでしょうか? 私があなたに伝えたいのは、あなたが今人生のどのポイントに立っているとしても、あなたの今見ていること、聞いていること、考えていること、学んでいること、全ての経験が後のあなたの人生で全て繋がり実を為すということ。今あなたの目の前にある課題に誠実に一つ一つ取り組むことでちゃんと道が開けるということ。たとえ昔自分が思い描いた人生と違うところに導かれても、そこでまた自分らしく、人のために社会のために、もしくは世界のためにあなたの人生の喜びと目的を実践していくことは、いつでも可能なのだということ。
人としての勉強をさせてもらったかけがえのない場所